物語ゲームのフォルダから

物語系のゲーム評ブログ(ファミコン、iPhoneからフリーゲームまで)

『悪魔くん 魔界の罠』

地球とよく似た舞台だがどこかおかしい世界を

世界情勢と結びつけて楽しんでしまった

 

 

1990年発売。メーカーはバンダイ。RPG。

wiki http://bit.ly/Tv7gSI

google-image http://bit.ly/RKBak3

 

 

今回は、物語と世界についての話。

システムは別の記事にする予定です。

 

 

まず舞台から。

 

舞台は、地球と同じような世界が舞台です。

街ごとに描き分けられたグラフィックがすばらしい。

スクリーンショットを貼りたいぐらいだ)

ひととおり巡る価値があります。

横スクロール画面は絵を見せる目的ではいいのかもしれないと思いました。

 

 

 

ここから本題の物語とか世界の話題。

 

物語は主人公が魔界に呼び出されたところから始まる。

つぎつぎにアイサツする6人の仲間(もちろんすべて悪魔)たちが愉快で頼もしい。

悪魔たちを従えて力を振るう戦闘シーンが想起できて期待が高まります。

 

スタート地点である日本(東京)は、

ドラえもんやサザエさんの風景を思わせる民家があり、

そして民家の立ち並ぶ背景に溶け込んだ電柱が魔界への入り口になっている。

 

そして最初の関門を突破すると、

なんと九州と韓国を結ぶ洞窟があらわれる。

 

現実の世界情勢と結びつけて

うがった見方をすることもできるだろう。

 

他にもある。

そして悪魔くんの仲間である12使徒は日本に6使徒を筆頭に、

残り6使徒はアジア、中東、アフリカで集結する。

 

そして、中盤のボスはイギリスに根城をかまえており、

(まだ未プレイだが)おそらく後半の舞台はアメリカ大陸に移るだろう。

 

もちろん北アメリカと南アメリカがどういう位置づけなのかも

楽しんでみようと思っている。

 

子供向けのゲームとはいっても

案外子供はこういうゲームの印象や関係を無意識に覚えておくものだ。

 

 

文明はどうか。

なぜかアフリカに環状線を思わせるバスが通っていたり

ボスのいるイギリスが前時代的な石造りの家であったりするところも

皮肉というか自由というか、とにかく楽しませてくれる。

 

そんな変わった現実の世界を旅する遊び方、読み解き方も、

30代のプレイとしてアリだと思っています。

 

 

『天使の詩 白き翼の祈り』

20年経ってようやく遊べるようになった恋愛RPGに

草食男子の萌芽を発見した

 

wiki

http://bit.ly/ObgQcn

 

画像検索

http://bit.ly/RENcM2

 

1994年発売。

RPG全盛の時代です。

王道のファンタジーながら、恋愛成分が多め。

当時は新鮮だったのではないでしょうか。

恋愛ファンタジーRPGというコピーが成立したと思われます。

 

 

個人的な話なのですが、今も昔も恋愛要素が強い作品は苦手で、

恥ずかしくなってプレイ(読んだり遊んだり)が止まってしまいます。

簡単にいうと避けてました。

 

ようやく恋愛主眼のゲームをプレイできるようになりました(祝)。

20年近く前の恋愛要素という点も後押ししていると思います。

 

 

展開されているのはベタベタな恋愛です。

かたや町の人やボスキャラクターの台詞には、

北斗の拳』的世紀末を感じさせるものもチラホラあり、

ベタ恋愛の台詞とのコントラストが引き立ちます。

 

それと、主人公<ヒロインがちょっと強い。

主導権はヒロインにあります。

主人公に気持ちを迫るようなシーンなんて今はありふれているけど

まだ、あの『エヴァンゲリオン』が世に出るすこし前の話。

前兆のようなものを感じて、にやりとせずにはいられませんでした。

 

 

(ところで、ベタも時代によって変わるんでしょうね。

するといまの10代はこのゲームの恋愛模様をどうとるのか?

ベタか?それとも?)

 

 

王道のファンタジー世界+恋愛+冒険。

こてこての体験ですが、直球もたまにはいいものです。

遊んでみて、そんな成分が足りていなかったんだなあと思いました。

 

戦闘やシステムはオーソドックスな感じなので、

RPGツクール製のゲームを多く遊んでいる方にはすこし退屈かもしれません。

でもレベルアップ等、テンポは良いのでストレスはそんなに感じませんでした。

(イベントでもレベルアップするのは良いしかけです)

 

物語もオーソドックスですがこちらはよりポジティブな意味です。

町の数が多く、また町と町との間隔が短いのも好きなところです。

ひとつひとつの町の個性はドラクエほどではないですが、次々と町を訪れるのは冒険者の気分になれて楽しい。

 

 

いまこのゲームをプレイするなら、

やはり物語を楽しむことを主眼におくのが良いと思います。

『GIANT KILLING』 2回目

24巻まで読んだ。

(自分の漫画体験においてですが)この漫画の新しさは、

地域の人の魅力をたっぷり描いているところです。

 

GIANT KILLING』では、

1.サッカーチームの監督

2.サッカーチームの選手たち

3.サッカーチームの運営者たち

4.サッカーチームの観客たち

の4つの勢力を同じぐらい重要に扱っています。

 

今まで読んできたスポーツ系の漫画は2が中心か、

1と2が中心というパターンが多かった。

 

 

ゲームはプレイヤーという要素があるから、

3や4を主人公にしたり大きく扱うのはなかなか難しいです。

漫画や小説が有利です。

 

でも何かできるかもしれない。

 

『GIANT KILLING』 1回目

漫画の短い感想も書いてみます。

 

1~15巻まで。

作品の見所や創作(特にゲームの物語)に生かせそうなポイントを載せるつもりです。

 

エンターテイメント全般で、物語ゲームと相性が良さそうなのが漫画だと推測しています。それに、漫画は全体的にレベルが高い…。ゲームだと、商業作品でもシナリオは良いがシステムが悪いとか、その反対とかけっこうあるんですが、漫画にはほとんど欠点が見当たりません。まだ読み足りていないのかもしれませんが…。

 

 

 

さて、『GIANT KILLING綱本将也、ツジトモ。

 

サッカーチームの監督を主人公に、地域密着型の弱小チームの成長を描いた漫画。主人公の達海(タツミ)監督は、元日本代表選手。

しばらく読んでみて、話の始め方が良いと気がつきました。選手時代から始めるわけでも、選手を辞めた直後でもなく、舞台となるチームの監督になったタイミングでもない。ましてや、選手引退後、酒浸りになって挫折したところを…というわけでもない。主人公のキャラクターを印象付けるのに最適な場面でした。第一印象では、奔放な主人公に反感を持ったぐらいなんですが、いまではとても痛快な主人公です。やられました。

サッカーのフォーメーションと、物語制作における人物の配置を重ねてみても、面白いかもしれません。野球とはドラマを生み出すしかけが違います。

GIANT KILLING(1) (モーニングKC)

GIANT KILLING(1) (モーニングKC)

 

データイースト 『探偵 神宮寺三郎 横浜港連続殺人事件』

 

子供のころ、背伸びしてふれた大人びた世界は
ウイスキー片手にプレイするのが良く似合う

 


 『探偵 神宮寺三郎 横浜港連続殺人事件』

行方不明になった人物の捜索依頼をうけ、探偵の神宮寺(じんぐうじ)は横浜での調査を開始する。その後、行方不明者に近い人物が死体となって横浜港で発見され、事件は思わぬ方向へと進む。
1988年にファミコンで発売されたアドベンチャーゲームである。プレイヤーは神宮寺となって、事件を調査し、解決に導く。異国情緒に満ちたグラフィックとサウンドは、トラベルミステリとしても楽しい。

 


 データイースト
株式会社。1976年4月20日設立。2003年4月に惜しまれつつ倒産。正直な作風が特徴で、デコ(DECO)の愛称で親しまれ、人気を博した。(物語色が強いゲームの)代表作は『ヘラクレスの栄光』シリーズ、『メタルマックス』シリーズ、『探偵 神宮寺三郎』シリーズなど。そのほかアーケードゲームも多数発表している。

 


 

  山下公園、中華街、横浜スタジアム、山下埠頭、領事館、バー、マンション、ホテル、ヤクザの事務所、宝石店。


『横浜港連続殺人事件』では、こんな場所を調査することになる。雰囲気が伝わる一覧ではないだろうか。もちろんジャンルはハードボイルドだ。それまで主にお城や洞窟を冒険していた私は、この新しい冒険が新鮮だった。行き慣れていない場所が冒険心をくすぐったのだろう。小学生のときだった。雑誌でこのゲームの紹介記事を読み、アベックという未知の言葉を知った。


買ったときのことをよく覚えている。何しろ高かったからだ。当時のファミコンカセットは定価がだいたい4000円~6000円ぐらいだったと記憶している。お小遣いは年齢かける100円。4年生なら400円。新品のカセットはそうそう買えるわけではなく、正月や誕生日をのぞいて、中古ショップで買い求めた。だいたい安いゲームは480円だとか780円だとかになるのだが、殺人事件を解く探偵になるゲームだけは、中古でも1980円や2980円で売られている。納得がいかなかった。きっと、販売本数が少なかったのだろう。でも、そんなは知識はなかったし、興味もなかった。まだ面白さに誰も気づいていないのだと思った。何度もパッケージに目を凝らして悩んだ末、買った。買うことすら冒険だったころの話だ。


徹頭徹尾、とにかく大人びて見えたゲームだった。主人公をはじめ、顔の長いグラフィックを持つ登場人物が多かったのも大人びて見えたし、「ひので」「とつか」「かながわ」「いせざき」といった登場人物の名前も大人びて見えた。

(後に、それらの人物名が横浜の鉄道の駅名にちなんでいるというのを知った。横浜に住む人や、地理に詳しい人は別の楽しみ方をしたのだろう)



プレイヤーは「ききこみ いせざき じけんのこと」「ひとしらべる とつか」などの「コマンド」と呼ばれる選択肢を次々と選び物語を進めていく。プレイヤーの操作に対して、作中の登場人物たちはなにかしらの返答をする。たとえば、事件を担当している加賀山署の捜査課長、伊勢崎はこんな風に話す。

かのじょが ゆくえふめいになったと
きいて、こまっているのは、われわれなんです。
じつは エバが いなくなったひのあさに、
エバとおなじく バラカりょうじかんに つとめる
じょせいが したいで みつかっているんです。


今でこそ、漢字の使われていない文章はカタコトに見えるかもしれないが、ファミコンが現役だったころには、そのような先入観はない。そして中身は、何の変哲もない文章だ。しかしそれが、ゲームとして画面に表示されると違った印象を持つのだ。何しろ、ゲームの中の世界では、何の変哲もない会話はあまりされない。

ところがここでは当たり前のように、特殊な職業の大人が普通に仕事上の会話をしていてその現場に立ち会っている自分…という状況におかれる。これはもちろん、冒険であり、ロールプレイングゲームである。


伊勢崎は話を続ける。

じつは このおんなは、われわれが めを
つけていた、ある そしきはんざいの・・・・。
はっきりいえば、みつゆですな。その
みつゆグループの いちいんでは ないかとみて、
ひそかに ちょうさちゅうだったんです。

 
そんな登場人物の話や行動に対し、時には主人公である神宮寺が独り言をはさむ。以下は、上に引用した伊勢崎の話を受けて、神宮寺の気持ちを表示したものだ。

なんだか はなしが おだやかで なくなって
きたようだ。みつゆとは・・・・。しかし、それと
エバと どういう かんけいが あるのか・・・・?


エバとは行方不明になった領事館勤務の女性である。当初はエバを探していただけだったのが、同僚が死体で発見されたことによって一気に事件性を帯びる場面だ。このように、主人公である神宮寺は、プレイヤーに対して頻繁に内面を吐露してくれる。内面は状況の解説でもある。行動を選択し内面を表示する毎に、ハードボイルドな探偵のキャラクターにプレイヤーは移入していく。捜査が進まないときは、主人公とプレイヤーはともに苛立ち、焦る。

実際、最初に遊んだときは、雑誌で紹介してある場面を過ぎたとたん行き詰ってしまった。しかし当時はインターネットもなかったし、他に遊ぶものがなかったから、投げ出しても再び向き合わざるをえなかった。それに、これは今だから言えるのだが、『横浜港連続殺人事件』は行き詰るという体験が実によく内包されていた。作りこんでいるという意味ではない。それどころか行き詰ると、ゲームらしくシステム内では時間が止まり、すべてのプレイに対して見知った反応しか返ってこない。それでも、バーにふらっと寄ってみたり、助手に助けを求めたりする。そんなプレイをさせてしまうところが、妙にリアルで大人っぽいのだ。それもこの作品の設定と場所のおかげだ。

そうやって頭を抱えたり、ため息をついたりするのは、社会に出て仕事をしてみると、もはや珍しくはなくなっている。だから、大人にとって、『横浜港連続殺人事件』で大人びていた体験のひとつはストレスに置換される。

 


それにしても、大人とはなんだろうか。実はよく分からなくなっている。横浜にしばらく住んだり、山下公園でデートしたりもしたが、モヤモヤは消えない。バーは大人びた場所だし、洋子さん(作中に登場する助手)は有能で美人で大人びた存在に見える。だが、そんな大人はどこか身近ではない(バーは個人差があるだろうが)と思われるのだ。それに、作中の彼らの年齢はとうに上回ってしまったのに、彼らはいまだに大人びて見えるのが不思議だ。

 

時代の変化か。自分がせっせと作り上げた大人のイメージとはなんだったのか。幻だったのか、はたまた消失してしまったのだろうか。それで、とぼとぼとこの世界へ戻ってくる。ウイスキーを飲みながら世界に沈む込むのだ(探偵としては失格だけれど)。画面をつけっぱなしにして、BGMを鳴らせたまま、別のことをしてもいい。そうして、私を包んでいるモヤモヤこそが大人なのかもしれない、などと考えるのだ。